2006年9月4日
生きるということ

突然ですが、きょうは親友だった人の命日なんです。

友人は、わたしが新人で同じICU病棟に配属されたときの同期でした。わたしがICUをでるまでの7年半一緒に働き楽しいときも悔しいときも一緒にいた人です。たくさん一緒に旅行にも行きました。

それから何年も過ぎ彼女も教員になっていた5年前のきょう、脳腫瘍で亡くなりました。35歳でした。

本当に悲しいときは涙も出ないんですね。

自分の生活は変わっていないしこれからも変わらない。

でも大切なものをなくしてしまったという感覚だけがなまなましいんです。

彼女の死によってそれまでの価値観や考え方が変わりました。

「生きる」ということの大切さについても考えるようになりました。

それまでは「自分はいつか死ぬかも知れない」なんて考えたことは全くなかったんです。

若かったし永遠にたのしい時間があるとおもっていました。

きっとこの親友が不治の病になり助からないかもしれないことを知ったとき、命には限りがあるのだと言うことにやっと気づいたのだとおもいます。

彼女はICUにいた看護師で、この病の人をたくさん看てきたから、病名とどこに出来た脳腫瘍かということを聞くとすぐに自分の予後はわかっただろうと思います。

でも手術することは拒んだそうです。

どんな思いで毎日を暮らしたことかと思います。

病気の進行が早くて、遠く離れていたせいもあって病気になってからの友人の声を聞くことはついにありませんでした。謝りたいこともたくさんあったのに。

「いつ死んでも後悔しないよう精一杯生きよう、精一杯遊ぼう!」というのが友人と私の口癖でした。このフレーズを口癖で言っていたわかい頃は遊びの言い訳として使っていたことも多くあったのですが、本当に死んじゃうなんて。

彼女は一生懸命生きたこれまでの人生についてはきっと悔いはなかっただろうと思います。でも35年以上生きれなかったことについては悔いが残っただろうと思います。

ちょうど5年前の今日亡くなったとき、わたしは友人の分までがんばって仕事をして生きようと思いました。彼女の代わりに彼女の果たせなかった分まで生きてがんばろうと思い今に至っています。

しかし

先日、女優の高木美保さんが私と同様に友人を亡くしたがんばりすぎていたこともあり7年もの長い間うつに苦しんでいたということを「金スマ」で語っていました。

人ごとでないように気がしました。

友達が天国から「あんまりがんばりすぎないで!」といっているようにも思いました。

自分を振り返る時間を与えられたような気がしました。

自分をときには外から見る自分って必要だなあ

思いました。

行動療法ではよくストレスが高いときや苦しんでいるときには客観的に自分をみることの必要性がテキストに書かれていますが

でも、なかなか悩み苦しんでいる渦中にある人には難しいものです。

日頃から自分の感情や置かれている状況を把握して自分をコントロールできるよう練習することは出来ると思います。

でもわたしも、忘れていました。他人の経験を自分に重ねたり、他者にアドバイスされたりして気づくことが多いのかな?

難しいかも知れないけどそういうときに

他者の意見やアドバイスにも耳を傾けることが出来る

状態ではいたいですね。

今日は話題が個人的なことになりすいませんでした!


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