2006年5月4日
認知症の方への接し方について

わたしはこれまで「認知症(数年前まで痴呆症と呼ばれてきた)の方への接し方」という難しい問題に関していつも悩んできました。

私自身、これまで医療従事者として認知症の方とは接してきましたし、わたしの祖母も最後の数年間は認知症だったということもあって少しは接し方への知識があるつもりです。しかし、認知症にもいろいろあり、つまり「呆け方」がいろいろであるわけで、実際に接する体験をしたときにその苦労は実感するものです。

今日は、これに関してわたしが以前読んだ本のなかの興味深い内容をご紹介します。

昨年5月頃ですが、老人施設でヘルパーの男性が施設の認知症女性を虐待死させたという報道がありましたが覚えておられますか?

そのヘルパー男性の勤務態度は真面目で一所懸命介護していたということです。虐待の内容は暖房の傍にずっと放置しやけどをさせたというものなのですが、なぜしたのかというと問いに男性は、「がんばって介護してもわかってもらえないからした」と言ったということです。

これは、認知症を介護する上で多くの人が持つ感情だろうと思いますしこれを聞くと多少同情してしまう部分があります。

人をお世話していくらいろいろなことがあっても、「ありがとう」とだけでも言ってもらえたらそれまでの感情が嘘のように消える体験を私はしてきました。

ところで読んだ本にはお世話する側の話ではなく、「呆け」てきた人の側からみた話が載っていました。とても興味深かったので書いてみることにします。
この本に載っていたのは論文だと思います。かなり調べて書かれているものです。
この著者は「呆けゆく」体験を汲み取る作業に焦点をあてたフィールドワークから書いていおられます。


「呆けゆく」ひとは「呆ける」ことそれ自体がつらいのではなくそれ以上につらくさせているものがあるからつらいのであると書いておられます。

「呆けゆく」ひとは無理矢理呆けに直面させられる体験やメンツをつぶされる体験に絶えず脅かされる状況であることが記述されています。

そして、呆けゆく人々の「メンツ」に敬意を払い、メンツが脅かされそうになったとき接する人々が「丁重にフォローする」試みに安心する「呆けゆく人々」が描かれています。

この論文では周囲や家族が「呆け」のレッテルをはめこむことが「呆けゆく」人にとってもっともつらいことであることが強調されていました。しかし「呆けゆく」事に自ら向き合えるよう試みる促しは、安心をもたらすし孤独で苦悩な感情の自己開示を促し良い方向に導くと書いていました。
わたしがもし認知症になったときに、世間の人、とりわけ認知症高齢者を預かる施設の介護者が「呆けゆく」人々への接し方を学び、理解が深めらている時代になっていたならいいなあと思いました。
人はいつかは死ぬし頭脳も年をとるので「呆ける」日がくるのは当然なのです。「呆ける」ことを呆けた人とその周囲のことだけと考えず、自分を含め社会の理解を深める事が必要だと感じました。

いま、渡辺謙さん主演の「明日の記憶」が公開されています。この映画になかの渡辺謙さんが若年性アルツハイマーになるのですがアルツハイマーになったご本人の苦悩や傍で介護する奥さんの姿が見事に描かれているそうです。残念ながらわたしはまだ見ていません。

(Nsは日本看護協会の会員証を映画館に持って行くと割引になるそうです。確か1000円とか)

今日紹介した本のなかの論文:出口泰靖, 「かれらを『痴呆性老人』と呼ぶ前に」現代思想30巻7号 特集「超高齢化社会」


コメント(%件)

コメントを残す

ニックネームは公開されますが、メールアドレスは公開されません。
* が付いている欄は必須項目となりますので、必ずご記入をお願いします。